死ねないことが怖い。

先日、「死」という物騒なトピックが友人との会話で話題に上がりました。

友人「死ぬは怖い」

私「なんで?」

友人「だって、自分の存在がこの世界からなくなるんだよ? 自分の存在がなかったことになっちゃうなんて」

私「なるほど、つまり、存在の無化が怖いの?」

友人「そうそう。存在が無になっちゃうのが怖い」

 

私にはどうも、〈存在の無化〉が怖いという感覚が分かりませんでした。むしろ私からすれば、存在から逃れられないことの方がよっぽど怖いんです。

毎朝、私は起こ”されます。人は自ら目を醒ますことはできません。毎朝夢の中で、「さて、そろそろ起きよう」と起床ボタンを押して起きるわけじゃない。いつだって、人は起こされてしまう。

「だれに?」と、聞かれるかもしれないですね。私はたぶん、「存在に」と答えると思います。(もし哲学に詳しい方であれば、レヴィナスの「il y a(イリヤ)」を想像してもいいかもしれません。ただし、本来の意味とは違う使い方をしていることは、ご留意ください。 )

存在は、毎日私を起こす。存在が私を起こさない日はない。

ここから逃げたいといくら思っても、明日は目を醒まさないでほしいといくら願っても、存在は私を起こすことをやめません。来る日も来る日も、私は常に存在の前で寝ています。つまり、私は存在に曝されているのです。

 

問題は、職なし家なしで野垂れ死んでしまうことではありません。

職なし家なしでも、存在し続けることです。

もちろん現在の年齢にもよりますが、例えば20代の場合、20年30年先、死んでいる蓋然性よりも、生きている蓋然性の方が圧倒的に高いのです。

そこが、私にとっては恐怖でしかありません。明日も、明後日も、1年後も、20年後も私は存在し続ける。生き続ける。死ねない。死ぬことすらできない。

死が怖いんじゃないんです。死ねないことが怖いんです。

生きることが、つまり、自らを存在し続けることが、存在の側から強制されている。私は、自らを存在することをし続けなければならない。

自分が、自分のコントロールから全く離れて、存在させられていることが怖いんです。

ある日ぽっくり、が、何十年も先であることが怖いんです。

 

「じゃあ勝手に死ねば?」と言われそうです。

でも、自死は迷惑をかける範囲があまりに大きい。こんなこと言ってる私ですが、理性はしっかりしています。だから自死については、両親や友人に対して申し訳ない、そう思う気持ちの方が大きいのです。たぶん、それを考える余裕すらなくなったとき、人は自死を選ぶのでしょう。

それに、私は「死そのものへの恐怖」が分からないと言っているのであり、「死に至ることへの恐怖」は持っています。文字通り”死ぬほど”痛いのは怖いし、目の前に殺人鬼が現れても「やった!死ねる!」と跳んで喜ぶことはないでしょう。

ここで強調されるべきは、「存在の無化としての死」だと思います。

 

「存在の無化」が怖い、「いつか野垂れ死ぬこと」が怖い。きっと、こちらのほうが多数派です。

だから検索してもなかなか、「死ねないことが怖い」なんて記事もブログも見つけることができませんでした。

でも、「存在することの強制感」に共感してくれる人がいる気がする。そんなことを思って書いてみました。

 

ちなみに、「自らを存在する」というフレーズは、20世紀の哲学者エマニュエル・レヴィナスの『実存から実存者へ』(原著:1947年、西谷修訳は現在ちくま学芸文庫で入手可能 )からお借りしています。

純粋で廉直でもありうるだろうその実存の運動は、たわみ、それ自身のうちでぬかるみにはまり、〈存在する〉という動詞のうちにその再帰動詞としての性格を露呈させる。すなわち、「ひとは存在する」のではなく、「ひとはみずからを存在する」のだ。

エマニュエル・レヴィナス西谷修訳)『実存から実存者へ』、p.53、2005年、ちくま学芸文庫、傍点省略