お祈りメールにホッとする

たぶん、誰からも必要とされていないことが確認できて、ホッとしているのかな。

お祈りメール、まだ数件しかもらっていないけれど、来たときに思うことは2つ。

 

  1. 「あ、だよね。キミが私を必要とするわけないよね。なんかごめんね、お手数おかけしちゃって
  2. 「よかった、私はやっぱり誰かから必要とされることはないんだ。安心した」

 

つまり、死ぬ理由を1つ得たことへの安心感といいますか。

例えば私は明日突然死んだとき、おそらく両親や友人などは、理由を求めると思います。

でも私が抱く「死ねない恐怖」とか「自らを存在することの強制感」を、それを全く知らない人たちに分かるように遺せるとは思えない。でもたぶん、何らかの理由がないと彼らは人の死を昇華できない。それならば、それっぽい理由を用意した方がお互いに好都合な気がします。

別に誰かに理解して欲しいわけじゃない。勝手に解釈されて訳の分からない理由を付されるよりは、それっぽい理由を用意して、それで納得してもらう方がまだいい。

 

「誰からも必要とされないんだ。よかった。安心して私は死を待てる。死を待つだけの日々にシフトチェンジできる。」

そう思うんです。ただ、存在から解放されたい。誰にも求められてないなら、好きに、私自身の死だけを待っていられる。

自分の死を待つ行為を正当化するために、お祈りメールを受け取り続ける。

お祈りメールを死ぬ口実にされては、企業の採用担当者からすればとんだ迷惑でしょうけど。

でも、死ぬ口実にはもってこいですよね。

まあ、死を待つだけですが。

 

いつになったら、自らを存在する義務から解放されるのだろう。