荒波にすら、乗り遅れる

荒波と凪

社会は、よく荒波に例えられます。

社会に出て、仕事に揉まれ、上司に揉まれ、人間関係に揉まれ、家庭に揉まれ。あらゆる外的な事物が私たちを飲み込んでいく。そうやって少しずつ、私たちは大人になっていく。

大学4年の夏にもなると、周りの友人がそうやって世間の荒波に分け入っていくための準備をしているのをよく見ることになります。

現に私自身も選択肢の1つとして、世間の荒波へと続く道を物陰からこっそりと見ているわけです。

しかし周りの友人と1つ異なる点があります。

私は、大学院進学を選択肢の1つとして考えている点です。

つまり、みんながこれから揉まれる荒波とは全く異なる道のこともまた、物陰から眺めています。

その道の行く先は、おそらく、ずっと凪の海です。波もないし、風もない。進むには、自分で漕ぐしかない。けっこう、恐怖です。

他方の荒波ならば、少なくとも一緒に超えようと声を掛けることができる人たちがいるかもしれません。「絶対に働きたくない」という意志の固い人間ではないので、こちらの海にでることも完全拒否、という訳ではありません。

 

自身と自信

  • もっと研究をしてみたい。
  • 自分が考えていることをしっかり理論立ててみたい。
  • あの先生の下で学びたい。

 

大学院に行きたい理由はちゃんとあります。こんなことを言うと違うと言われるかもしれませんが、最終的な目標は大学の教員になることです。

  • 自分がいま学んでいることを、次の世代にしっかり繋ぎたい。
  • まだ見ぬ天才が到来するまで、この学問を残し続けたい。
  • もっといろんな人がこの学問に興味を持てるように取り組んでみたい。

研究者であり教員ではなく、教員であり研究者という方が、私の性に合っていると思います。第一線の研究者として名を馳せたいというよりも、丁寧な教員として、地道に哲学の良さを伝えていきたい。最終的には、そのような動機に繋がると思います。

もちろん、私自身の研究としてやりたいことはあります。ただ、それを最優先するタイプの教員ではない、ということです。

 

しかし大学院進学を覚悟するための問題が、大きく2つあります。一方は、外的な問題。他方は、内的な問題です。

外的な問題とは、いわゆる「食べていく」という問題です。定職を得られない研究者がこの国にはどれだけいるでしょうか。博士課程終了後の30歳無職社会経験なし(博士号)に、世間はどんな目を向けるでしょうか。まさに、荒波にすら、乗り遅れることになります。運よく日本学術振興会特別研究員(PD)に採用されたとしても、その先は?生涯就職活動です。それに、耐えることができるのだろうか。。

 

内的な問題は、こんな例えから始めましょう。

私は、大学院進学をよく「ギター一本抱えて『俺は音楽で食っていくんだ!』と電車に飛び乗るミュージシャンの卵」と例えます。

自分の才能を信じて、音楽で食べていく覚悟をして東京へ出る彼らと、状況は同じです。夢破れて修士で諦める人、博士号を何とか取っても、働き口がなくて苦しい生活をする人、それに耐えきれず自殺する人。一発当たれば、さらにアカデミアのみならず世間にも名が知れれば、それで食べていける。でもそんなことができるのは一部の天才だけで、多くの人が名前すら残らず星屑になって消えていく。

 

それでも頑張ることができるのは、真理への飽くなき好奇心だったり、自分の才能への信頼だったり、自分にはこれしかないんだというもはや盲目的な信念だったりを持っているからでしょう。

そして私は、これらを持つことができる人になりたかった、と思うのです。悩みもがき苦しみながらも、信じるものがあれば、人は立てると思う。

残念ながら、私には信じるものがない。ことさらに自分のことは、一番信じることができない。

自分のことを信じることのできない人間が、どうして自分の夢を追うことができましょう。

自分のことを信じることのできない人間が、どうして自分の手で船が漕げるでしょう。

 

それでもなお、大学院へ憧れを抱いてしまう。きっと、仮に就職することになったとしても、心のどこかで、大学院を夢見ることでしょう。「いつか、本当にこの想いが溢れだしたら、会社を辞めよう」と思うことでしょう。

 

そこまで思うなら覚悟を決めろよと、多くの人が思うでしょうし、実際に言われてきました。

それでもなお一抹の躊躇いが生じるのは、みんなが飲み込まれる荒波にすら、乗り遅れることへの不安です。

荒波から逃げ、凪から逃げ、そのとき私に何が残るのだろう。

一度荒波に揉まれる経験はしておいた方がいいのではないか。

どうしても、そう思ってしまう。とんだ臆病者です。

 

どこへ行っても、逃げなのです。私は、逃げることから逃げられない。私が私自身に示した道は、そのどれもが何かからの逃げ道なのです。

どの道に逃げることがいいのでしょうか。

人生の選択とは全く難しいものだなと、思うばかりです。

読みたいだけ。

小説、なんて言えるようなものではないけれど、どうしようもなく、フィクションが書きたくなることがある。

書き始めたのは、もうずいぶん昔。

でも飽き性だから、1、2本くらいしか書き上げたことはないんじゃないかな。

書き出しだけはね、たぶん得意なんです。

頭だけ書いて、「ここから先考えるのめんどくさいな~」って思っちゃうと、別の新しい書き出しが思い浮かぶもんだから、結局書き上げることなしに小説の頭だけが溜まっていく。

 

なんで書きたくなるのか。

たぶん、自分が読みたい本がないから(?)

探すのが下手なだけなんですけどねたぶん。

読みたい本がないなら、自分で書けばいいじゃん。暇もつぶれるし、一石二鳥!

それで書き始める。

でも、書きあがることはない笑

 

だってさ、僕はただ読みたいだけなんですよ。書いていると、予想外のセリフや状況が現れることがある。

「え、まじか、どうしたの?」

って思って、次の文章を待っているんだけど、「それはお前が考えろ」とでも言うかのように、登場人物たちは口を閉ざす。

考えて上手くいけば気持ちいいんだけど、何も思い浮かばないときは別の話を考え出してしまう。

あんまり一途ではないのかもしれない笑笑

 

とにかく、書き手として書いているのではなく、読み手として書いている。

だから登場人物のセリフにも驚くし、これから彼らがどうなるのかドキドキもする。

 

でも、きっと誰かに読ませることはないと思う。

自分が読みたいだけだから。

置かれた場所で、目一杯咲くから。

これまでの人生を振り返って気づいたことがある。

これまでどうにかこうにか上手くやってきたのは、置かれたその場所でそれなりに精一杯やって来たからだと思う。

「置かれた場所で咲きなさい」のごとく。

置かれたその場所で、平均以上の結果は出せるくらいの努力はしてきた。あれが本当に努力なのかは自信がないけれど、それでも、結果は出してきた。

でも多分それは、自分で「置いた」わけじゃない。

 

人は、そんなんじゃダメだ、もっと自発的になれ。とか言うかもしれない。

 

でも僕は「置かれた場所で精一杯花を咲かせる」ことを頑張ってきたんだ。そして、それを求められてきたんだ。

いまさら、「自分で好きなところに自分を置け」と言われても、困っちゃうんだよ。。

 

置かれた場所で咲きなさい。

 

目一杯咲くから、たくさんの花を咲かすから、なんなら実だってつけるから、

 

だから、

 

置いてほしい。

 

摘まれた花は、自分じゃ土に根差せない。

 

 

 

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遺書

近頃、遺書の枚数が増えてきました。

 

自分を存在させ続けることが心底嫌になって、自分から逃げたくなって、死にたい。

そんなとき、遺書を書いています。

なぜでしょう、死にたくなって、よし、明日目を醒まさずに死のう。そう思うと、遺書が書きたくなるのです。

遺書を書いて、これまで出会ったすべての人に、「ありがとう」を遺したくなるのです。

そして、彼らの仕合わせを、心の底から、願いたくなるのです。

 

こんな僕と出会って、関わってくれて、本当に、本当にありがとう。

こんな僕と関わってくれるようなそんなに優しい人なんだから、絶対に仕合わせになる。

てか、仕合わせになってくれないと困る。

心から、仕合わせを願っています。

 

そう、遺したくなる。

だから、死にたくなると、その度に遺書を書いてしまって、遺書がどんどん増えていく。

 

いま隠し場所になっている場所がいっぱいになったら、どうしようか。

そろそろ、待つだけじゃなくて、迎えに行くべきなのだろうか。

 

分からない。分からないけど、とにかく思うことは、頼むから、仕合わせになってください。お願いします。

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お祈りメールにホッとする

たぶん、誰からも必要とされていないことが確認できて、ホッとしているのかな。

お祈りメール、まだ数件しかもらっていないけれど、来たときに思うことは2つ。

 

  1. 「あ、だよね。キミが私を必要とするわけないよね。なんかごめんね、お手数おかけしちゃって
  2. 「よかった、私はやっぱり誰かから必要とされることはないんだ。安心した」

 

つまり、死ぬ理由を1つ得たことへの安心感といいますか。

例えば私は明日突然死んだとき、おそらく両親や友人などは、理由を求めると思います。

でも私が抱く「死ねない恐怖」とか「自らを存在することの強制感」を、それを全く知らない人たちに分かるように遺せるとは思えない。でもたぶん、何らかの理由がないと彼らは人の死を昇華できない。それならば、それっぽい理由を用意した方がお互いに好都合な気がします。

別に誰かに理解して欲しいわけじゃない。勝手に解釈されて訳の分からない理由を付されるよりは、それっぽい理由を用意して、それで納得してもらう方がまだいい。

 

「誰からも必要とされないんだ。よかった。安心して私は死を待てる。死を待つだけの日々にシフトチェンジできる。」

そう思うんです。ただ、存在から解放されたい。誰にも求められてないなら、好きに、私自身の死だけを待っていられる。

自分の死を待つ行為を正当化するために、お祈りメールを受け取り続ける。

お祈りメールを死ぬ口実にされては、企業の採用担当者からすればとんだ迷惑でしょうけど。

でも、死ぬ口実にはもってこいですよね。

まあ、死を待つだけですが。

 

いつになったら、自らを存在する義務から解放されるのだろう。

死ねないことが怖い。

先日、「死」という物騒なトピックが友人との会話で話題に上がりました。

友人「死ぬは怖い」

私「なんで?」

友人「だって、自分の存在がこの世界からなくなるんだよ? 自分の存在がなかったことになっちゃうなんて」

私「なるほど、つまり、存在の無化が怖いの?」

友人「そうそう。存在が無になっちゃうのが怖い」

 

私にはどうも、〈存在の無化〉が怖いという感覚が分かりませんでした。むしろ私からすれば、存在から逃れられないことの方がよっぽど怖いんです。

毎朝、私は起こ”されます。人は自ら目を醒ますことはできません。毎朝夢の中で、「さて、そろそろ起きよう」と起床ボタンを押して起きるわけじゃない。いつだって、人は起こされてしまう。

「だれに?」と、聞かれるかもしれないですね。私はたぶん、「存在に」と答えると思います。(もし哲学に詳しい方であれば、レヴィナスの「il y a(イリヤ)」を想像してもいいかもしれません。ただし、本来の意味とは違う使い方をしていることは、ご留意ください。 )

存在は、毎日私を起こす。存在が私を起こさない日はない。

ここから逃げたいといくら思っても、明日は目を醒まさないでほしいといくら願っても、存在は私を起こすことをやめません。来る日も来る日も、私は常に存在の前で寝ています。つまり、私は存在に曝されているのです。

 

問題は、職なし家なしで野垂れ死んでしまうことではありません。

職なし家なしでも、存在し続けることです。

もちろん現在の年齢にもよりますが、例えば20代の場合、20年30年先、死んでいる蓋然性よりも、生きている蓋然性の方が圧倒的に高いのです。

そこが、私にとっては恐怖でしかありません。明日も、明後日も、1年後も、20年後も私は存在し続ける。生き続ける。死ねない。死ぬことすらできない。

死が怖いんじゃないんです。死ねないことが怖いんです。

生きることが、つまり、自らを存在し続けることが、存在の側から強制されている。私は、自らを存在することをし続けなければならない。

自分が、自分のコントロールから全く離れて、存在させられていることが怖いんです。

ある日ぽっくり、が、何十年も先であることが怖いんです。

 

「じゃあ勝手に死ねば?」と言われそうです。

でも、自死は迷惑をかける範囲があまりに大きい。こんなこと言ってる私ですが、理性はしっかりしています。だから自死については、両親や友人に対して申し訳ない、そう思う気持ちの方が大きいのです。たぶん、それを考える余裕すらなくなったとき、人は自死を選ぶのでしょう。

それに、私は「死そのものへの恐怖」が分からないと言っているのであり、「死に至ることへの恐怖」は持っています。文字通り”死ぬほど”痛いのは怖いし、目の前に殺人鬼が現れても「やった!死ねる!」と跳んで喜ぶことはないでしょう。

ここで強調されるべきは、「存在の無化としての死」だと思います。

 

「存在の無化」が怖い、「いつか野垂れ死ぬこと」が怖い。きっと、こちらのほうが多数派です。

だから検索してもなかなか、「死ねないことが怖い」なんて記事もブログも見つけることができませんでした。

でも、「存在することの強制感」に共感してくれる人がいる気がする。そんなことを思って書いてみました。

 

ちなみに、「自らを存在する」というフレーズは、20世紀の哲学者エマニュエル・レヴィナスの『実存から実存者へ』(原著:1947年、西谷修訳は現在ちくま学芸文庫で入手可能 )からお借りしています。

純粋で廉直でもありうるだろうその実存の運動は、たわみ、それ自身のうちでぬかるみにはまり、〈存在する〉という動詞のうちにその再帰動詞としての性格を露呈させる。すなわち、「ひとは存在する」のではなく、「ひとはみずからを存在する」のだ。

エマニュエル・レヴィナス西谷修訳)『実存から実存者へ』、p.53、2005年、ちくま学芸文庫、傍点省略

 

はじめまして

いまさら、何を思ったのか。

でも、書いてみたくなったんです。

自分の言葉を、残してみたくなったんです。

 

簡単な自己紹介を。

日本で哲学を学んでいます。20代です。

性自認はよく分かりません。周りからは男性扱いされるので、性別欄は男性に丸をしますが、自らの意志ではないと思います。クエスチョニングquestioningってやつです。

ただ、クエスチョニングだからといって特に困ったことも苦しかったこともありません。たぶん、「他者と違う」ことに対して人よりも受容的だからだと思います。

でもいつか、そんな話もしたいです。

 

ここで書くことは、、たぶん楽しいことではないと思います。どうしてか、気分が沈んでいるとき、何もかもから逃げ出したいとき、絶望したとき、筆を取りたくなるからです。

 

吐露の場、もしくは、思考をだらだらと残す場、くらいにしようと思います。